第21回IUHPEでの健康生成論やsense of coherenceの取り上げ方について(その3)

(昨日の続き)オーストリアのPelikan氏は、WHOのヨーロッパ支局が出しているという、「ヨーロッパ地域の非感染性疾患(NCD:脳卒中や癌、心疾患、糖尿病、高血圧症など、生活習慣病を含む細菌感染によらない疾患の総称)対策のアクションプラン」における、「医療サービス機関のありかたの再方向付け」というテーマについての取り組みの紹介をしていました。
 Pelikan氏は、このテーマを、健康生成論的に模索する必要があるとしており、健康生成論と健康生成モデルによって、この医療機関の役割について分析的に再整理を行なっており、その検討結果について報告していました。
 伝統的には、病院をはじめとする医療サービス機関の位置づけは、基本的には治療を行なって、危険因子/リスクファクターを除去する、いわば疾病生成論的場所でありました。しかし、今回あえて健康生成論と健康生成モデルと照らし合わせることで、医療サービス機関の新たな価値と意義の抽出ができたということです。つまり、健康生成論的に「病院」をとらえなおした、いわば「ヘルスプロモーション・ホスピタル」における役割は、「個人レベル」と「シチュエーションレベル」の2つに分けられるとしていました。前者の「個人レベル」での役割としては、健康習慣や健康管理に関連する知識や技術、ヘルスリテラシーを強化することが挙げられていました。また、「シチュエーションレベル」での役割は、患者情報や教育・相談、セルフケア・自己管理を支援する健康・社会サービス、健康グッズ(薬・栄養など)、住まいや衛生、といった関連インフラの利用可能性やアクセスの改善がその役割として挙げられていました。つまり、医療機関は、ヘルスリテラシーの向上や行動能力、自己効力感の向上、さらには、教育相談、医薬品や栄養物品、医療器具、そして衛生環境といった、「健康的(salutogenic)」であるための資源を創出し、配布する場所でもあると報告していました。
 このPelican氏の報告は、他のセッションでも熱心に行なっていて、またヘルスリテラシーに関するセッションでも個人レベルに特化した部分について説明が行なわれていました。
 健康生成論は頭では大事だとわかっても、実際に自分の研究的価値観として受け入れ、アウトプットを出すことは難しいと思います。健康生成論的価値観では、既存の疾病生成論の価値を否定はしませんが、両立させる、ということで、俗っぽく?考えると疾病生成論の価値を半減させるものかもしれません。つまり、リスクファクター除去に向けて頑張って新たな知見を見つけた、すごい発見をした、というとき、もし疾病生成論のみの価値観の世界であれば、これはすごい発見だ、医学・健康科学の発展に大いに寄与する発見だ、と言う話になります。がしかし、健康生成論と疾病生成論を両立させる価値観を許容すると、そのリスクファクター除去に関する知見の発見は、すごい発見で大事だけど、それはあくまで疾病生成論的に価値が有るという問題で、健康生成論的にみると・・・という話になってしまう、かもしれません。ただ、科学哲学的なパラダイムシフトというのはそういうことなのだろうと思います。
 しかし、視野が広く器の大きな人は、そうは見えないかもしれません。先ほどのBauer氏やPelikan氏は医師で、まさに疾病生成論的な教育を受け、実践、そして研究活動をされてきた方だと思います。しかし健康生成論を柔軟に受け入れ、そしてその中で新たに着実に様々な研究をしているという、視野が広く、器の大きな人なのではないかと思った次第です。かくいう私は健康生成論にずぶずぶに浸ってやっていますが、研究の駆け出しから、幸か不幸かこのテーマであったので、柔軟とか器の広さとか、全くもってない(関係ない?)のではないかとも。。ただ国内ではかなりマイノリティだろうとつくづく思います。