臨床の知と健康生成論

8月18日に、合同院生ゼミを札幌で行いました。このゼミでは、同僚である本学の井出先生の提案で、中村雄二郎著の「臨床の知とは何か」(岩波新書、1992年)を朝から晩まで一日かけて抄読する、ということをしました。この本は、その昔私が浪人生のころに、医系論文の授業か何かで、断片的に読んだことがありましたが、最初から最後まで丸ごと読んだことはなく、良い機会と思って、一通り読んでみました。
はじめは、近代科学の反省と、パトス、パッション、パッシブ、への着眼というところからはじめて、アリストテレス哲学における方法に立ち戻って学問的追究を進めていくことが有効であるとして、それは保健医療領域の学究活動こそが新たな展開を迎えるカギになる、というような、かなり端折ってしまいましたが、そういう流れであったと思います。
この中では、1970年代後半から1980年代にかけての保健医療領域におけるパラダイムシフトが海外で起こっていることについては全く触れられていないことから、中村雄二郎氏の独自の思想的展開により描かれているようです。しかし、それがかなり一致していました。我々の領域の重要概念であるbio-psycho-social modelや、健康生成論、ナラティブ、主観的健康、QOL、最近ではヘルスリテラシーやヘルスコミュニケーション、といった舶来のキーワードを用いることなく、完全に中村氏の言葉で、しかも科学史的根拠に基づいて議論を展開し、これらをまとめたものとして「臨床の知」と呼んでいると理解しました。

中でも、健康生成論とSOCに通じるくだりもありました。中村氏は健康について以下のように述べていました。
「人間というのは、きわめて複雑な仕組みをもった生命有機体であり、精神=身体的な存在である以上、百パーセント健康な人もいなければ、百パーセント病気の人もいない。百パーセント健康などということは、生命有機体の性質からしてありえないし、また百パーセント病気だったら生きていられないからである。…中略…すなわち健康とは、人間が生命有機体かつ精神=身体的存在として、日常生活に支障のない或るレヴェル以上で、外界や他社に対して<リズムとバランスを保っている状態>、より正確に言えば、<相対的に安定した自己調節機能(ホメオスターシス)をともっている状態>である、と。(p161)」
これは、健康ー健康破綻の連続体モデルのことで、直線上に健康をなぞらえることに通じていると思います。この、ホメオスタシスに言及するのもアントノフスキーの論に近く、Antonovskyはエントロピーの法則を出し、秩序ー無秩序で説明をしようとしていました。とかく無秩序になりがち(健康が刺激によっておかされがち)であるのを秩序化するのがSOCであると、無秩序化にあらがう力であるとしていました。抗う力までは言及していませんが、ホメオスタシスに言及するのは非常に似ていると思いました(当時の流行りの考え方だったのかもしれませんが)。
さらに、この本のなかでは、近代医学が持っている「特定病因説」、つまり、病気には単一の病因が存在して、それを取り除けば治る、という考え方を否定しています。もっと複雑な多岐にわたる要因により疾患は発症するのであって、逆にある病原体に感染しても、抵抗力を有していれば発病しない場合もある、というような展開をしています。アントノフスキーは疾病生成論と、健康生成論は車の両輪として並び立つ必要があるとしているのですが、特定病因説は、疾病生成論の考え方の中の、さらに狭い領域の考え方であろうと思います。この立場は医療の落とし穴として警鐘を鳴らしていますが、その通りで、疾病生成論的な学問的追究では、多要因や要因間の関係も含めた複雑な関係性を念頭に疾病要因を追究することは必要であろうと思われます。それと健康生成論とはまた別の立場になると思います。
また、
「…前略…病気が、<リズムとバランス>の、つまり、<安定した自己調節機能>の破れであるという、まさにそのことによって、生命有機体であり精神=身体的存在であるわれわれ人間にとって、危機を通して自己を更新し、リフレッシュする働きをもちうる、ということである。このような危機が意味をもつのは、それがわれわれを境界性(リミナリティ)におき、日常性の惰性化を突き崩すからである。境界性とは異界の性格をもったものであり、すぐれて人生の節目を構成するのである。(p162)」
と述べています。この前にも、病の経験を経ることでより多次元的な現実(日常生活を改めて見直すなど)を見ることができる、とか、風邪の効用とか、トーマス・マンの小説「魔の山」の紹介とか、そうした例を挙げています。ストレスという用語は出ていませんが、危機はストレッサーなのであって、乗り越えるための力の存在と、それが危機に瀕した経験によって培われる可能性についてまで言及しています。かなりSOCの話に近づいているように思われます。実質、こうした健康の定義について深めていくなかから、SOCらしきものを見つけているようにもみえます。
細かくみればきりがありませんが、アントノフスキーの著作の中とかなり似た議論となっていることに気付いたので、備忘録代わりにしたためました。意思決定やヘルスリテラシー、ヘルスコミュニケーションの話もこの展開の中から出現していて、繰り返しになりますがこの本のなかで行き着いたところが、私たちが研究し、学んでいた、健康社会学や健康教育学の領域で明らかにしようとしてきて、そして今後も明らかにしようとしているものにかなり近いということがわかりました。
ただ、本書の中では、ソーシャルネットワークソーシャルキャピタルなどの、ソーシャルな健康要因、健康資源についての言及がみられていないのがちょっと残念なところだったと思います。