SOC資本?(2)

SOC資本の話の続きです。
当時資本論は少しかじった程度で、社会関係資本については全くもって知らなかったのですが、良く知らないと言うことは逆に知識に束縛されずに、いろいろ自由な発想ができて良いなあとも思います。かなり恥ずかしい話なのですが、原発問題が再燃したこの時期で、多少関係するようにも思い、恥を忍んで書く次第です。備忘録程度なので、適宜スルーしてください。
当時、金融資本や物的な資本に重きをおいた資本主義サイクル的な考え方、あるいは、市場経済の論理に支配されることを大変に恐れていて、それに代わるイデオロギーはないものかと、生意気にもいろいろ考えていました。人間の欲望は限りないので、どこかで断ち切らないと、後戻りできないところまで行ってしまうのではないかと。
問題なのは価値の置き方で、せつな的な快楽に価値が置かれることが全ての間違いで、知的好奇心が満たされることだとか、心が豊かになることとか、思考力が高まったり、感受性が豊かになったりすることとか、そういったことに価値がおかれるのが良いのだろうとつくづく思っていました。
極端な例では、たとえば、ブランド物の靴下と、福祉施設で障害者達が作った靴下とが同じ値段であった場合、見かけやデザインではブランド物のほうが良いのですが、それを作るためにかけられた様々な人々の手や思いを考えると、福祉施設で作られた靴下のほうが深みがあるし、苦労して作った思いがわかり、その重みや価値をかみ締めて履いていたほうがより豊かな生活が送れると思えると良いなあと。
効率が良くてかっこよくて気持ちよいもの、というところを求めるのではなく、効率が悪くて見た目が悪くても気持ちがこもっていたり、一生けんめい作っていたものの方が価値があるように思えるような、そういった世の中だと良いなあと思っていました。
そんな中でSOCに出会って、SOCは経済資本に代わる概念になりうるのではないかと考えたのでした。つまり、SOCという志向性は、せつな的な快楽的志向性とは一線を画するもののように思いました。先ほど言った、心の豊かさ、思考力や感受性が豊かな状態をうまく言い換えてくれたもののように思いました。状態ではなく、私が考えていたのは、ものの見方や考え方であったので、SOCはそれそのものであろうと。
金銭は、SOC理論(健康生成モデル)では、あくまでも資源のひとつに過ぎない位置づけになります。フィンランドLindstrom博士は、英国の作家Wサマセット・モームの「お金とは人間にとって第六感のようなものだ」という一節を取り出してSOC理論における位置づけを説明していましたが。。少なくとも全くないのは問題であることは間違いなさそうですが。
SOCが高い人は、かなり自分勝手で、周囲のものや人はみな資源であると見える人で、鼻持ちならない人がでてくるかもしれない、と、そう山崎先生が言っていましたが、本当にSOCが高いという人は必ずしもそうではないとも私は思っています。SOCが高い人は、先ほど言った思考力や感受性が豊かなのであろうと、洞察力や想像力に富むのではないかと思います。そういったSOCこそが資本として重きがおかれて人間の社会生活が営まれることが良いのではないかと。福祉施設の靴下のほうが良いと思えるのは、SOCが高い故なのではないかと。さらに、購入し、使用することによってさらにSOCが高まることなるのではないかと。SOCは過去の良い経験の積み重ねで、よりよく生きることにより高まっていき、さらによりよく生きることにつながるものであると。
当時、そんなことを考えてレポートを書いたのでした。そして、より良く生きたいが、思考力も洞察力も想像力も足りない自分はそうでもなさそう、とつくづく感じていた私は、SOCのことを勉強すれば少しでもSOCが高まっていくのではないかと、SOCが持つ社会的な価値と並んで、そんな不純な動機もあってSOCの研究を修士論文のテーマに選んだのでした。