山崎研究室とSOC研(1)研究室の伝統

 1月は上旬に高熱と咳が出る病気(インフルエンザと思ったのですが、医者は特に何も言われなかったのですが)に侵され、死にそうな日々が続き、下旬には聖路加の中山和弘先生が編者となっている教科書の執筆があったり、その後さまざまな締め切りが押し寄せてきたりで、この1ヶ月本当に多忙で、SOCのことを考える暇もなく過ぎておりました。
 教科書の執筆部分については、文字情報の整理と、個人情報の保護の部分で、一見するとまったく持って私の専門とは違う部分ではあるのですが、文字情報の整理は文章の書き方、論文・レポートの書き方のようなもの、個人情報の保護については実務上、研究上の個人情報に関する扱い方に関するもので、実は研究を行ううえで最低限知っておかねばならない基礎的な部分でもあり、時間はかかりましたが意外と興味を持って進めることができました。
 その関係で本ブログは、決めていなかったのですが、1週間に1回は書こうと思っていたのですが、まったく手付かずという状況になってしまいました。
 その間にいろいろ変化があり、私の出身の東大の健康社会学教室が、歴史に一度幕を下ろす格好になることがはっきりしたということがあります。以前よりわかっていたことではあるのですが、唯一のスタッフであった山崎喜比古先生の退任をもって、後継者がいないので終わり、ということになると思います。
 日本の大学の研究室というのは不思議で、規則と不文律とが入り混じっていて、運営や形態が不明瞭な状況のところが多いのではないかと思います。長くいた人にしかわからないルールのようなものがあったり。ことに歴史が長くなるとそうなってきやすいのかも知れません。

 健康社会学教室も(本当は「教室」とは言わなくて「研究室」なのかもしれませんが)不明瞭な位置づけであります。ただ「健康社会学」という名前が消えるのかというとそうではないと思います。すでに専門分野名として登録してあり、それは医学系研究科を構成する専門分野のひとつとして意義があるから存在しているわけで、簡単に消せるものではないので。しかし、徒弟制の日本の研究室の伝統から、弟子が名跡を継ぐということでなく、別の門下の人が名跡を継ぐと、まったく違うものになっていくのであろうと思います。つまり、別の門下生だった方がそこを継ぐと、その研究室は、別の門下に組み込まれていく、ということになるのでしょう。言ってみれば大相撲の年寄名跡や部屋や一門という考えと一緒だろうと思います。医者の世界とも同じと思いますが、閉鎖的だなあとも思います。健康社会学の場合はもっと複雑で、大学院部局化とも絡んでいて、主任が教授ではない、という状況もあってより混沌としています。

 旧保健社会学教室OBの先輩方は、保健社会学を愛している人が多く、大変にさびしがっている人が多いようです。私もその一人ではありますが。今山崎先生の退任に当たっての記念誌を作成しており、さまざまなOBの方から寄稿いただいているのですが、みんな寂しがっています。山崎先生が言っていたのですが、基本的に大学院に進学してくる学生はほとんどがモラトリアムであろうと。自分が何者で今後どうしたいのか、わからず結論を出すことを留保して進学してくる学生が多いと。山崎先生はじめ過去の保健社会学の先生方は、そういった学生を拒まずに受け入れ、じっくりとつかづ離れず接して、じわじわ彼ら彼女らの良いところを探して引き出す、というかかわりを続けてきたということなのだそうです。OBOGの先生方は、居場所を作ってもらい、こうしたかつての先生方の薫陶を受けるばかりか、さらには、それによって自分の生きる道を漠然とかもしれませんが見つけることができた人たちであろうと思います。なのですごく居心地が良かったと。保健社会学、あるいは、健康社会学という学問分野自体がそうした境遇の人材と親和性があったのかもしれません。かつての大学院生時代の自由な時代が思い出されると、そのように考えている方が多く、研究室がなくなるのは寂しいと思う方が多いのであろうと思います。ただ、客観的に見るとフリースクールのような感じなのかなあとも。東大付属の。(フリースクールを否定しているわけではまったくありません。)
 しかし、そのような保健社会学、健康社会学の教室がなくなるというのは、残念ですが、時代の流れなのかもしれません。そういうモラトリアムを引き受けるほど今の大学にはゆとりがないとか、大学院に入ったとたんに成果を求められるとか、社会と同じであるとか、そういった雰囲気がほかの研究室には見られているわけです。本当にそれが学問をするうえで良いことなのか。たぶん大学は本来はそうではないはずだと、そこで育った自分を見てみろと。寂しがってばかりいないで、それに愚痴だけでもなく、他人頼みでもなく、自身で実際に世に示していくこと、こういったところで育てられたからこそこんなに世に貢献することができたのだ、ということを示していくことこそが、厳しいのですが保健社会学・健康社会学OB・OGの役割であろうかと思います。