sense of coherenceとソーシャル・キャピタル

SOCとソーシャルキャピタルについて、そもそも比較するようなもの同士なのか、と思う人も少なくないと思われます。
ただし、本稿で繰り返し議論しているように、SOC自体はその人の周囲にある環境の評価も含まれているので、必ずしも違う種のものとも言いにくいと思います。
環境の主観的な評価である、という点ではヒューマンキャピタルの次元なのかもしれません。SOCは乳幼児期から思春期、成人期にかけてのその人が接してきた環境によって成り立つ部分もあるのでそこはヒューマンキャピタルでしょうし、現在の環境との関係を考えればソーシャルキャピタルの部分も含むのかもしれません。両者を含んだ複雑な構造になっている概念と考えたほうがよさそうです。
ただし、ソーシャル・キャピタルは健康生成モデルにおける「汎抵抗資源」と捉える事もできると思います。従って、ソーシャルキャピタルが低い地域に住む人々のSOCの平均をとると低くなるのではないかと思いますが、この検討は部分的には正しい一方で、部分的にはトートロジーの可能性もあります。SOCが単純に個人内に宿る力と定義しきれないところにこの問題の難しさがあります。

集団レベルのSOCという概念があります。
ある集団自体が持っているストレス対処の能力で、その集団が遭遇した事件や出来事、例えばある地域で土砂崩れが起こってその地域のライフラインや産業がマヒしてしまった、という時、そういった自体から立ち直る力がその地域に備わっているかどうかで、復興の度合いが異なると思います。
そうした集団レベルの立ち直る力は、個人レベルのSOCと同様の力を考えることができます。

集団レベルのSOCはソーシャルキャピタルなのでしょうか。
難しいのですが、やはり個人レベルと同様に含まれる部分と含まれない部分もありそうにも思います。集団の凝集性の強さや信頼関係の強さは、集団レベルのSOCの基礎になるようにも思います。その一方でソーシャルキャピタルは、集団レベルのSOCを考えるとしても、健康生成モデルでいうところの汎抵抗資源の外的なもののうち、社会関係的な部分の総体を表す概念に過ぎないようにも思います。答えは保留です。すみません。じっくり考えてみたいところでもあります。

集団レベルのSOCについて、いずれ項を改めて議論したいところですが、SOCが高い人がたくさんいる集団では集団レベルのSOCが高いと必ずしも言えない、というのがAntonovskyの意見です。高いSOCをもつ人から低いSOCを持つ人まである程度の幅を持って分散している集団が、集団レベルのSOCが高い可能性もある、としています。
その測定はなかなか難しそうです。